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2014年4月よりJOCV、ベネズエラにてアグロエコツーリズム開発のサポートを。

人間が持つべき信仰心について

先週日曜日から来週日曜日まで、カトリックの人たちにとってとても大きな祭日、Semana Santaがある。

そんなわけで、語学授業ではもっぱら宗教をテーマに会話が進む。
月、水の先生はとても若くて、そして敬虔なカトリック教徒。毎朝祈り、日曜日には教会に行く。
誰にでも感じよく接し、親切な彼を見ていて、その全ては信仰から来ているのではという印象を強く受ける。

ベネズエラでは、田舎の方はまだまだ宗教が人々の生活に密着しているけれど、カラカスでは、毎週教会に行く人なんて半分もいないんじゃないか、と彼は言う。都会では、時間がめまぐるしく流れて、仕事や家事や勉強に皆忙しい。道端でも、これだけ強盗が多い昨今、人々は必要なことしか喋らないし、会話も田舎よりすくないよ、と。

それが行き過ぎたのが、今の日本なんだろうか。日本でも田舎の方は、それぞれの土地の神様を祀った祠や神社があって、お祭りをするところもある。そういうところは、近くに自然がある。

経済やテクノロジーの発展は、自分たちで全てをコントロールできると錯覚させる危険があるような気がしてならない。どうにもならないものごとが存在するということを、私たちは認めるべきなのかもしれない。そういう意味では、信仰は意味を持つのではないかと思う。

ただ、彼、語学の先生は、もう少し別の視点で、人間には宗教が必要なんじゃないかと言った。
それは、孤独心と関係していて、キリストやマリアに祈ることによって、自分は愛されていることを実感するのだと。
そういう理由で、日本で自殺が多いのは、人々の信仰心が薄いからじゃないのかな、と。

これについてはどうなのかよくわからない。本来、ひとはひとりであって、孤独心を持つことは本当は当たり前のような気がするし、今の日本人は、孤独を恐れ過ぎているようにも見える。
自殺をする人の心境は、わからないけれど、とても苦しんでいるか、つまらないんじゃないかなあ、と思う。そう、答えが用意されているのはとてもつまらない。

とにもかくにも、日本が信仰心が薄いのは、悪い意味で現物主義だからではないかと思っている。お金、物、技術、コントロール。そしてそれらは心の豊かさや人のつながりなど、目に見えないものをちょっとずつ削る。
ただそれは、信仰心ありきではなく、どうにもならないものごとが存在して初めて、信仰が意味を持ってくる。

どの状態が一番豊かなのか、すべての人にとって豊かな状態はあるのか。

少なくとも、自分が一番豊かだと思える状態が、自分の周りの人と共有できて、そしてそれが誰の豊かさも奪っていない状態を目指したいもの。

もう一つ、祈りという行動にたいして。
信仰とは、祈りありきでなくてはならないのだろうか。
祈りは、目には見えないものへのお願い事だというふうに理解しているのだけれど、彼の言うことには、キリスト教の祈りはすこし瞑想と似ている。普段頭に浮かぶさまざまな物事を、その時だけは取り払い、イエスとの対話に集中するのだと。
祈りは、形式的なものではなく、もっと日常的に行えるようになることを目指しているんだろう、その段階として形式は存在しているのだ、と思った。

祈りを行うことで、自分自身がどうありたいのか、それを見つめ直す時間が祈りなのかもしれない。