飢餓まではいかない、食の不自由。
食というキーワードが最近頭にこびりついている。
きっかけは、友人との会話だと思う。
ある夕方。もう暗くなってくる頃。
友人の若いお母さん「今夜食べるものがないのよ。パンを買いに行ったら売っていなくて」
私「えぇ~ Harina Pan(主食のとうもろこし粉)ストック切れたの?」
お母さん「そう、もう一週間になるわ」
私「パスタは?パスタなら確かあそこのお店に売ってたよ」
お母さん「またパスタ~!?もうずっとパスタしか食べてないのよ」
私「そうかあ、、、」
ベネズエラは、現在、石油の価格下落による経済状況の悪化により、貧困層のために政府により低価格に規定された食品や日用品が手に入らず、深刻な物不足となっている。
要は、私の理解だけれど、急速なインフレ、ドル高が進む中で、政府の規定した低価格では、生産者が自分達の商品を売りたくないのだ。鶏肉、主食Arepaの粉用のとうもろこしなど、原材料の多くが他の国々からの輸入であると言われている。また、商品の横流しというのも行われているらしい。くわしく分からないけど。
とにかく、スーパー、地域の食糧雑貨店の棚はからっぽ、日用品が届いた時に、人々は行列を作り、一人○個まで、と決められた買い物をすませることになる。
最近、スーパーでは身分証明書の番号下一桁により買える曜日を制限されるようになった。0と1で終わる人は月曜日、2と3は火曜日、という具合。
会話の話に戻る。
多分、前の私だったら、なんだ贅沢だなー食べ物がまったくなくなったわけじゃあるまいし、と思っていただろうと思う。
でも、おいしいごはんや味噌汁を食べた時の満たされる気持ちを、社会人になってから感じられるようになった私は、食べたいものを食べる、ということの幸福感がどういうものかがなんとなく分かるようになった。
そして、ここの人たちが、どんなに食べることが好きかということも、この一年でありありと実感している。ごはんトークは尽きることがないし、冷えた食事、冷えたコーヒー、ぬるくなったジュースは飲まない(捨てる)。一日に食べる回数の多さ、個人のごはんでも自分だけ食べるということをせず、必ず周りの人たちにも分け与えてくれる(逆にその人の分を残しておかないとあとで怒られたり(もちろん冗談でだけど)、また与えられた食べ物を断るのもすごく失礼なこととされている)、そんな人たちだ。
一方で、食のバラエティはとても少ないと感じることもしばしば。
豆の煮方、味付けも人々の間ではもう決まっていて、「この食材はこういう調理方法や味付けをするもの」という固定観念がすごく強い。
パスタも、「またパスタ~!?」と感じてしまう所以は、ソースがほぼ一種類しかないのだ。ミートソースにマヨネーズをぼったり乗せたもの。たまに摩り下ろしたチーズも乗っている。(個人的には昔の喫茶店の「ナポリタン」のイメージ。)
限られた食材で様々なバラエティの、そして美味しい料理をつくれるということの重要さを、目の当たりにしている。
多分、まだ具体的にわからないけれど、ベネズエラ以外にも、好きな食材が手に入らない場所というのは世界にはたくさんあるんだろう。
飢餓まではいかない、食の不自由というものの存在があるような気がする。
その場所にあるもので、その場所の人々が好きになってくれるようなおいしいごはんがつくれるようになりたい。
そんな気持ちがとても強くなっている。
ネブリナ山探検紀行 ―世界最古の森から
今年の8月に、ギアナ高地(ロライマ山とエンジェルフォール)に国内旅行に行く計画を、他の隊員と立てている。
去年、ベネズエラに来たばっかりの時は、実は、まあいけたらいいかなあと思っていたくらいで、そこまで行く気満々ではなかったのだった。どうも、「滝」とか、「国立公園」とか、「野生動物」、そういう響きには反応が鈍い。「ガラパゴス」「死海」「サハラ砂漠」「ケニアのサバンナ」「タスマニア」このあたりも、あんまり。まだ、自然だけの風景から何かを受け取れるほど、自分の受信アンテナの感度が高くないものだから、わざわざ有名な観光地というだけ(今の自分にはその情報しかない)で足を運ぶ気がしないのだと思う。そういう感度のある人と一緒に行くか、ツアー以外の手段があれば別だけれど(余談だけれど、自然の中でも「星空」「ほたる石」には珍しく反応したのだった。ウユニと、オーストラリア。光るものは、分かりやすいから隙なのかもしれないな。ほたるも好きだ)。
そんな中で、ボランティア連絡所にてタイトルの本を見つけた。読む気になったのは、関野吉晴さんが同行していたからだった。
エンジェルフォールのあるアウヤンテプイ山で感じた原始の世界に生きているような感覚と神々しさ、ギアナ高地の形成は、今から20億年前とのこと、生命が誕生する、はるか前。あのテーブルマウンテンの黒い岩壁は、17億年前の岩盤がむき出しになっているという。
(ここから<em> にしたいのに反映されない。本の引用です)
目をぬぐいながら見る光景は現世とは思えない。稲妻によって台地上全体が照らされるとき、いまだ恐竜どころか原始の生命がこれから生まれる地球誕生の光景をほうふつとさせる。荒々しく暴力的で、みじんのやさしさもないが、不思議と神々しい。雨の中、歯をガチガチさせながら、原始の世界に生きているような錯覚におちいった。
アマゾンのジャングルでも狭い地域に豊富な種類の植物がひしめきあっている。ジャングルに入って周囲を見渡す。その視界の中に同じ種類の植物を探し出すのに苦労するほどだ。これもこの地の地味が貧しいための苦肉の策だ。多種類の植物が生えるということは、一つにはそれぞれの植物によって必要な養分が違う。一つにはそれぞれ根の張り方が違うので、養分を吸収する場所をゆずりあっている。こうしてバランスの取れた共同生活をしているのだ。
(</em> ここまで。なんで反映されないのかな)
関野さんが一緒に歩いたのは、カナイマ観光の創始者、ジャングルに住むルーマニア人の植物学者、動物学者、地質学者のおじいさんだった。そのおじいさんは、この地で恐竜を見たという話を関野さんに語っていた。きっと、この場所なら見ても不思議ではない、と、関野さんは感じていただろう。
この本が書かれたのは、私の生まれた年だ。
とにかく、歩いてみたい、そう思ったのだった。
旅人のように自由な身ではなく時間も限られているので、パッケージツアーに参加するよりほかはないけれど、コナンドイルの失われた世界の舞台にもなった(といわれている)ロライマを歩くことができたら、なにか自分の感覚に触れるものがあるのではないかという気がした。
森ガール(妖精系ではなく、チェーンソーふりまわす系の)と一緒なので、そんなひとと森を歩けるのも楽しみのひとつ。
今から楽しみです。
社会主義、、
政府のこと、市役所のひとたちのことを悪く言う市民のひとびとが最近特に目に付く。
地方の小さな村は、チャベス大統領が行ってきた無料教育(Misión Robinson I y II, Ribas, y Sucre)や家屋の無料提供(Glan Misión Vivienda)などのプロジェクトの恩恵をもろに受けているので、政府や行政に頼る部分がかなり大きいのだとなんとなく思った。
政府からの補助金がないと、なにもできないという人がとても多い。
もちろん、スタートの段階での初期投資は必要だ。観光サービスに関して言えば、手続きを踏んで観光局に申請すれば、資金がもらえるプログラムもある。
ただ、そのあとのことは、自分たちでやりくりするべきだと思う。売上げをあげるための工夫だったり、商品を仕入れるための仕組みだったり。社会起業関連の本で、インドやバングラあたりはよく出てくるけれど、中南米は少ないよなあ。そのあたりのことを、教えられる人がいたらいいのにな。
個人の事業主で一番儲けているのは、中国人なのではないかと思う。
ドルを持っている、持っていないという問題はとても大きいけれど、中国人が経営している商店の品揃えのよさだったり、早くから遅くまで店が開いていたり、そういう部分でも売上げは違うのではないだろうか。
とにかく、それは市役所側がするべきだ、政府がするべきだ、と市民が思っている範囲が広すぎるんじゃないかという気がすごくする。
こういうプロジェクトを考えているから資金をください、という姿勢ではなく、文化保全のためにプロジェクトすら市役所側で考えろ、という。民芸品、詩人、そういう人たちをなんとか生かせ、という。
文句ばっかり言って、自分たちではなにも考えない。
市役所側は市役所側で課題もたくさんあるのだけれど、なんだかなあ、と思ってしまう。
ベネズエラ以外でもこうなのか、それともチャベスの政策のせいなのか。
「カリスマな政治家がいない、と嘆くのはおかしい。日本でカリスマがいなくてもなんとかなっているのは、国民ひとりひとりがなんとかやっているからだ」、と言っていたのは、糸井さんだったか。
いまベネズエラにひつようなのは、政府に頼らない個人の起業家とそれをサポートする社会起業家、そして情報、インターネットではないかという気がする。
別の隊員が言っていたように、ドルが獲得できるかも大きな問題かもしれない。ネットでのクラウドファンディングも、公定レートでは何もできない。大使館の草の根プロジェクトすらも、欲しい金額に全然到達せず、私の配属先では諦めたのだった。
難しい国だなあ。
というぼやき。
表現者
ひっそりとした、非公式なライブ。
身近な人、誰もが知っている人なのに、どこか幻想的な歌。
一曲歌い終わるごとに、その人のこと、村のことを語りながら、
また弾き始める。
数年前に亡くなった、あるおばあさんの歌。
とても貧しく、病気になったら世話をしてくれるような家族もいなかったおばあさんが住んでいた。よその家で服を洗ったりしながらなんとかその日を生き、時々人々に食べ物を請うては断られ、こどもたちは彼女が通るとからかい、石を投げたりしていた。
ある日、彼女は病気で亡くなってしまう。
すると、葬式には、豪華な花、チョコレート、ありあまるばかりの食べ物が集まり、村中の人が、彼女の死を悼み、訪れたのだという。
平和を語る、孤独なおじいさんの歌。
その老人は、生まれた時から家族がいなかった。一人ぼっちで育った。それでも、道端で彼が説くのは、家族の愛、平和、調和、そんなことばかり。彼は、誰に対しても、どんな時も、非難したり、ののしったり、そういう言葉は一言も言わなかった。
人々に愛されていた 、孤独なおじいさん。
ほかには、ほかには?リクエストすると、「そういわれると、出てこないんだよ」といって、困り始めるから、ただ黙って全身を耳にする。
午後の光が、傾き始め、知らず知らずのうちに、どこからともなく晩ごはんのにおいがしていた。
この豊かな空間を、私はどうしたらいいのかわからず、ただただ、時が過ぎていくのを悲しく思う。
クアトロの音色は不思議だ。ギターのようなベース音がないから、それだけではどこか不十分な気がするのに、その足りない部分が、空白をつくり、物悲しさを漂わせる。それに乗せた、情感たっぷりな歌い方が、とてつもなく心に響く。
世界はフラクタルな構造をしている。
池澤夏樹さんが、コラムにてそう書いていた。全部を見られるはずがない、と。
この村のことを、ひとつ知るたびに、また深く迷い込んでいくようで、まるで底がないのだ。
すべての場所が、同じように底がないのだろうか?そうかもしれない
でも、そこまで導いてくれるものは、やっぱり、人でしかない。その場所をとてつもなく愛している人でしかない。
そういう人に出会えることの奇跡的な幸運を、ただただ感じていた。
この場所の、表現者たちの凄さよ。
異文化と価値観とありがとうとごめんなさいの話
昨年、年末あたりの話
こっちのひとは、ほんとうに「ありがとう」と「ごめんなさい」を言わない。
ステイ先の子どもたち(3歳と4歳の姉妹)と手動の手回しラジオで遊んでいた。
洗濯をしている最中だったので、洗濯機に呼ばれて少し子どもたちから目を離す。
そしたら、妹のほうが「ラジオ、部屋に置いておいたよ」と言いにきた。
「ありがとう」と私は言って、しばらくして部屋に戻ってラジオを片そうとしたら、もち手がポロっと取れた。あー、壊しちゃったのね。事務所から借りてたものだから、怒られるかなあ、でもたぶん接着剤でなんとかなるな、そんなことを考えながら、壊してしまったことを、子どもはどう考えるのだろうと思って、聞いてみた。
私「ラジオでもうあそばないの?」 妹「もう終わった」
私「ここ、外れてるけど、どうしたの?」 妹「知らない」
私「でも、貸す前は、外れてなかったでしょう?」 妹「ソフィア(姉)がやった」
姉「ちがうよ、カーラ(妹)がやったんでしょう!」 妹「ちがう」
姉「嘘つき!」
私「ほんとうはカーラが壊したの?」 妹「(無言)」
私「怒ってないし、壊しちゃったのもしょうがないけれど、もし人のものを壊したら、なんていわなきゃいけないのか知ってる?」
妹「うん、私が壊したよ、だから早く直して(ドヤ顔)」
私「(ちょっとびっくり)ちがうでしょ、謝らないといけないでしょ」
妹「でも許してくれるでしょ、色えんぴつで塗り絵しようよー」
私「だめ、ものを使う時は、壊さないように気をつけないといけないでしょ、人のものを壊した時は、謝らないといけないでしょ。わかった?」
妹「じゃあもうなにも貸してくれないの?(わかってない)」
私「色えんぴつはいいけど、ラジオとか携帯は、また壊すかもしれないから、もうだめね」
妹「(半べそ)意地悪。」
姉「カーラに何も貸さないんだったら、私ももうること遊ばない。いこ、カーラ」
・・・唖然。私が悪者になってしまった。
3歳の子に分かってもらうのは難しいのかな、と思いながらも、こっちの子は言葉が達者なので、話してみたけれど、あんまり伝わらなかった。
そして、次の日以降、また何事もなかったかのようにあそぼーーーってくるから、子どものすごさを思い知る。根に持つとか、そういうことって多分必要ないんだなあ。
子どもだけじゃなく、大人も、ありがとう、ごめんなさいって言わない。
・約束してて、すっぽかされたとき→言い訳+逆切れ
・ホチキス壊されたとき→日本製は複雑でよくわからないわーと笑いながら手渡される
・悪い冗談言われて切れたとき→ジョークでしょ、辛抱弱いねえ(No tienes paciencia)と笑われる
・ものを貸したり、通りすがりに水を一杯あげたりしても、ありがとうって言わない
ごめんなさいって言う時は、ぶつかったり、足踏んだり、くしゃみしたときとか。
ありがとうって言ってくれた時は、お土産をあげたり、プレゼントをしたりしたときとか。
訓練中の日本人研究で調べたテーマが、まさにこのことで、それを思い出して、やっと異文化という捉え方で捉えられるようになってきた。
ただ、わたしは、やっぱり「ありがとう」を、一日何回も、もう条件反射で言ってしまうし、「ありがとうって言いすぎ」ともよく言われる。あと、自治体での説明会をすっぽかされた時、もちろん自治体側は謝らないが、そのために遠くからヒッチハイクで来てくれた学生や同僚に対してやっぱり申し訳なくて、「ごめん」というと、「それはるこのせいじゃないんだから、謝る必要ない」と言ってくれたりもする。
訓練中の日本人研究の時、インドやネパールでは、「ありがとう、ごめんなさい」は、言ったら相手との距離が広がってしまうため、全然言わないという話を聞いた。たぶん、ここも、それに近いんだろう。
私がそれにあわせる必要はないし、かといって向こうに態度を改めろというのも間違っている。言い訳文化ということで受け入れさえしてしまうと、気持ちがとても楽になる気がした。
他にも、合わないと思うところはたくさんあって、旅中に感じた中南米文化のきらきらした部分だけが印象に残っていた自分としては、くじかれる思いをたくさんするけれども、無理にあわせず、なにそれーそんなことしないし!みたいなつっこみ感覚でいるのもなかなか余裕を持たせるのに役立ったり。
コスタリカでの6ヶ月をはじめ、
メキシコ、ぺルーとボリビアの3ヶ月半、
ベネズエラでの1年、
エクアドルとパナマの10日間
全ての時期において、中南米という地域に対して、新しい印象、新鮮な気持ちが生まれていることに、感謝をしようと思った。
最近、年が明けてからのことだけれど、いろいろ落ち込むことがいくつかあって、またいろいろ見失ってきたので、人生でしたい100のリスト、というのを書いてみた。昔書いてた1年の100の目標の、一生版。
行きたい場所、やりたいことのほかに、心がけたいことをリスト化できて、やっぱり、自分の一番の克服したいテーマが、つきつめると、「他人を受け入れる、価値観の違いを受け入れる」ということなのだと思った。
これができない限り、私は自分のことを一生好きになれない。
このために苦しむことを、いとわないように、あきらめないように、目を背けないように生きていけることができたら、あとはどんな人生でもいい、どんなこともできる、そう思った。
旅とお金と
年末年始、10日間ほど、エクアドルとパナマに遊びに行ってきた。
これで、中南米で足を踏み入れた国は、ちょうど10カ国になった。
久しぶりの旅から帰って、今までの旅や旅の種類のことを考えたりして、任地に戻るときになってもまだ旅頭から抜け出したくなくて、ナオト・インティライミの旅日記を借りてきて読んだ。バックパッカーの世界一周旅行記とか、今まではあんまり興味なかったのだけれど、なおとさんの素直な感じ方とか、まっすぐな文章とかが気持ちよくて、共感する部分も各所にあって、楽しみながら読んでいると同時に、旅に出たい欲がふつふつふつふつふつふつふつと湧き出てきてしまった。
ただ、今回のパナマ・エクアドルの旅行と、なおとさんの旅行記を読んで、今までとは違う気持ちが出てきた。
バックパッカーの旅というのはいわゆる貧乏旅だというのが共通の認識で、彼らは安宿に泊まり、公共の乗り物を使って、現地の人と同じような食事をする。ヒッピーみたいなかっこで、大きな登山用バックパックを背負って、そこから靴やら、飲み物やら、いろんなものをぶらさげている(イメージ)。
彼らはぼったくられるということをまるで武士の恥とも言わんばかりに嫌う。もちろん、お金がセーブできればそのぶん長く旅を続けられることもあるし、安いに越したことはないので、当然といえば当然なのだけれど。
いっかい、パナマで、日本食を買った帰り、元旦にバスが走っていなくて、タクシーつかまえなと忠告を受けて道路の脇に立ってきたときのこと。一緒につかまえようとしてくれた人と待っているときは、一台もとまらず、その人に悪い気がして、もう大丈夫だよ、と言い、彼が去ったあとに一人で待っていると、急にタクシーがとまりだした。最初にとまったタクシーに、○○までいくら?と聞くと、15ドル、と言われ、いくらなんでも高すぎたので、そのまま見送って、二台目を待ったら、二台目は2ドルだった。運転手さんと話したら、私をパナマに住んでる人だと思ったらしい。
観光客と、現地の人の物価の差、というのは認めるべきか、拒むべきか、このことについて、考えていたのだった。
まあ、結局のところ、どっちも良いと思うのだけれど。正確にいうと、使い分けるべきというか。
個人的には、前よりは、外国人と現地の人で違う値段を請求する人に対して、自分は寛容な気持ちになっているなあと思う。だって収入が違うんだもんな。しょうがない。一眼レフぶら下げて、数十円の差でもめてる人なんか、現地の人はどういう気持ちで見ているのだろう、とか思っちゃったり。
もちろん、常に羽振りよくお金を払うことは避けたほうがいい。きっと危険だし、とても配慮に欠ける姿勢に見える。
ようは、質素に、適正に、お金を使うことができればベストなのだ。
たとえば民芸品にしても。
エクアドルの民芸品市場では、可愛いけれど既製品のようにそれぞれの店で同じようなものが並んでいる中で、値下げされても買う気が起きなかったけれど、パナマの民芸品では一点一点の手づくり感がすごく強く見ていて飽きず、先住民の女性が自分の商品を売っていて、いろんな話をしながら値切りもせずたくさんの買い物をしたりした。
たとえばキューバは、観光客と地元の人用にペソとドルが存在していたり、ブータンなんかはもう強制的に観光客用の価格でしか観光ができなかったり。
(ベネズエラでも、そのうちドルとボリバルのダブルスタンダードができそうだ。ドル獲得はベネズエラ人にとってとても大きいし、インフレとボリバルの下落スピードが半端ないうえ旅行者にはドルからボリバルへの換金はちょっと骨を折るのではないかと思う)
余談だけど
前に、ベネズエラ人と日本人と話していて、高級マンションの一ヶ月の家賃の値段をベネズエラ人が言ったときに、日本人のえっ!(安!)という驚いた姿を見てはらはらしたことがあった。
その国の最低賃金や平均的な収入を知っていれば、こういうときに配慮ができるのだなあと思った。旅行中も同じかもしれない。
お金の価値、
お金の使い方。
それらは、ただ単に経済状態やステータスだけじゃない、その空間における自分の立ち位置とか、人への配慮とか、商品への価値を示したりとか、こだわりや意思表示とか、ほんとうにいろんなものが表れる。
そんなことを再認識。まとまったかな。
Hallacaお料理教室
Hallacaという食べ物、ここではクリスマスの伝統食として知られている。
大好きな食べ物のひとつで、とうもろこしの粉を水で練り、肉や野菜、オリーブ、家庭によっては豆の煮物をまぜて、カイピオという、バナナみたいな葉で包み、茹でる。イメージ的には日本の笹巻きみたいなもの。
油を使わない分健康的で、具沢山でとても美味しい。
来年1月から5月まで、JICAで食と農業をテーマにした展示を行うとの事で、ベネズエラの伝統料理として、Arepa pelada、Empanada、そしてこのHallacaの写真を送らせてもらった。機会があれば是非見てみてください。
先週の日曜日、欲しい分だけこれから作ってくれるというので、手伝わせてもらった。ただ買うだけじゃなくて、お客さんが一緒に作れたり、作っているところを見れたりする観光ができたらいいな、という話をしながら。
ここのお家では、今はHallacaを売っているだけだけれど、いずれは食堂をやりたいのだと話してくれた。もう家族単位での観光サービス提供事業主としての登録は済んでいるのだという。今は、家の中の環境を整えているところなんだ、とお母さん。
さて、Hallacaをつくる。
いつも、中の具は作り置きしているので、今回はとうもろこしの粉を練ってカイピオの葉の上に広げ、具を上に置き、包む、というところを一緒にやらせてもらった。見ていると難しそうだったのだけれど、やり方を教えてもらうとなるほど、きちんと包まれる。にしてもそのお母さんの手早いこと。私が一個終わると、彼女はもう3つ目に取り掛かっている、という具合。
最後に、残った具ととうもろこしの粉をまぜて、ちっちゃいTamalをつくろう、ということになった。私は、HallacaとTamalは同じもの(よその国でTamalと呼ぶものを、ベネズエラではHallacaと呼ぶ)のかと思っていたが、ベネズエラにもTamalはあって、Hallacaとは違うものだったみたいだ。
Tamalのほうが小さくて、具ととうもろこしの粉を混ぜて包むらしい。
今度具をつくるときに改めて教えるよ、と言ってくれて、Hallacaのほかに、お土産にTamalをたくさんくれた。
かえりみち、嬉しくて、人に会うたび、Hallacaつくったんだよーと自慢をしてしまう。ただ、そのたび一個ずつHallacaかTamalが減っていくのでした。