印象と記憶
Lang-8である記事を発見。日本の春を見たことがあるベネズエラ人は、日本の桜を見てApamateを思い出すのだなあと。私がApamateを見て桜を思い出しているように。
何かを見ると、自分の知っている何かと結びつけるように、脳みそは出来ているらしい。今までに全く見たことのないようなものを見たときと、自分の知っている何かに似ているものを見たときと、どちらの方が印象が強いのかというと、後者じゃないか。
全く生まれて初めて何かを見る、体験をする、という時は、たいてい反応する間もないままその瞬間は過ぎ去ってしまい、その経験はそのまま引き出しの奥深くにしまい込まれる。そして同じような体験を二回目に経験した時に、はじめて、引き出しにしまわれて以来の経験は日の目を浴びる、ような気がする。
繰り返されるものほど重要だと認識されるようになっているのだろう。
感動する瞬間というものは、もしかしたら今までに似たような経験を既にしているのかもしれない。
自分が心動かされること、大事だと思うことは、そう思う前に、もうすでに引き合わされているのだなあ。当然といえば当然のこと。自分の身に降りかかることごとやその時のある偶然によって、人はそのつど進む道を決めている。
それでも偶然は、ただ一度では引き出しのなかから出てこられないことが多い。似た偶然や、もしくは一見何も関係ない景色やにおいや雑踏、音、そんなものがトリガーになって、それがいくつも重なった時に、大切なものとして目の前に下りてくる。
でも、ふと、引き出しのなかにしまいこまれたものたちに意識がいくことがある。引き出しにしまい込まれる前に、初めての段階で、強く印象を残したものというのもあるだろうか。本当に初めての段階で、反応ができるときというものも存在しているだろうか。
なんかそんなことが気になった。