mamenotanemame

2014年4月よりJOCV、ベネズエラにてアグロエコツーリズム開発のサポートを。

表現者

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ひっそりとした、非公式なライブ。

身近な人、誰もが知っている人なのに、どこか幻想的な歌。

一曲歌い終わるごとに、その人のこと、村のことを語りながら、

また弾き始める。

 

 

数年前に亡くなった、あるおばあさんの歌。

とても貧しく、病気になったら世話をしてくれるような家族もいなかったおばあさんが住んでいた。よその家で服を洗ったりしながらなんとかその日を生き、時々人々に食べ物を請うては断られ、こどもたちは彼女が通るとからかい、石を投げたりしていた。

ある日、彼女は病気で亡くなってしまう。

すると、葬式には、豪華な花、チョコレート、ありあまるばかりの食べ物が集まり、村中の人が、彼女の死を悼み、訪れたのだという。

 

平和を語る、孤独なおじいさんの歌。

その老人は、生まれた時から家族がいなかった。一人ぼっちで育った。それでも、道端で彼が説くのは、家族の愛、平和、調和、そんなことばかり。彼は、誰に対しても、どんな時も、非難したり、ののしったり、そういう言葉は一言も言わなかった。

人々に愛されていた 、孤独なおじいさん。

 

 

ほかには、ほかには?リクエストすると、「そういわれると、出てこないんだよ」といって、困り始めるから、ただ黙って全身を耳にする。

午後の光が、傾き始め、知らず知らずのうちに、どこからともなく晩ごはんのにおいがしていた。

 

この豊かな空間を、私はどうしたらいいのかわからず、ただただ、時が過ぎていくのを悲しく思う。

 

クアトロの音色は不思議だ。ギターのようなベース音がないから、それだけではどこか不十分な気がするのに、その足りない部分が、空白をつくり、物悲しさを漂わせる。それに乗せた、情感たっぷりな歌い方が、とてつもなく心に響く。

 

 

世界はフラクタルな構造をしている。

池澤夏樹さんが、コラムにてそう書いていた。全部を見られるはずがない、と。

この村のことを、ひとつ知るたびに、また深く迷い込んでいくようで、まるで底がないのだ。

すべての場所が、同じように底がないのだろうか?そうかもしれない

でも、そこまで導いてくれるものは、やっぱり、人でしかない。その場所をとてつもなく愛している人でしかない。

そういう人に出会えることの奇跡的な幸運を、ただただ感じていた。

 

この場所の、表現者たちの凄さよ。